2021年9月 6日 (月)

宴が終わって

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楽しかったオリンピックもパラリンピックも終わりました。「こんな時にやってどうするんだ」という声もあったけれど、私はこの時期に日本でやれてよかったと思っています。日本だからやれた、日本でしかやれなかった、と誇ってもいいんじゃないかな。
個人的には特にパラリンピックがよかった。今までは中継もなかったし、あまり見る機会がない…というか関心があまりなかったのですが、今回は自国開催ということもあって、じっくりと見ることができました。
私達は子供の頃、気の毒な人を見つめてはいけないと言われて育ちました。子供の頃は傷痍軍人の人達も街中にいましたが、気の毒な人を見つめてはいけない…と言われているうちに、関心も薄くなってしまったのだと思います。最初のうちは、身体がむき出しになる水泳競技など、どこか見つめてはいけないものという意識が働いていましたが、見慣れてくると、みんな個性的ですごいよ、と思うようになりました。
ラグビー、陸上、バスケットといろいろな競技を見ているうちに、それぞれの身体に合わせた動き方、能力を引き上げる器具の進化などに興味津々、みんなカッコいいと思うようになり、気の毒と思う意識が薄れていきました。もちろん、個人個人のエピソードを聞くと、それぞれ重い過去と現在があるのは理解しているのですが、そこに留まらず前に進む姿がカッコいいな、と思うようになったのです。
それと、個人的には、ボッチャが面白かった。絶妙なコントロールと緻密な作戦が必要で、目安となるボールを動かしてしまうことで、一発逆転もあるのです。それまで知的障害と脳性麻痺の人の区別もつかなかった私ですが、ボッチャをやっているのは脳性麻痺の人達で、杉村選手(個人で金メダルを取った)という求心塔がいることもあり、とても楽しく観戦することができました。
まったく障害があるように見えない知的障害の人達がパラリンピックに参加していることも不思議でしたが、陸上の1500mを見ていたら、ペース配分ができないからどんどん好きなだけ走って行ってしまう…という姿を実際に見て、ああなるほどな…と納得がいきました。
自国開催だからできた全競技の中継(録画もありましたが)、それをしてくれたNHKに感謝です。見慣れる…ということが私には大事で、パラリンピックはとても面白かったというレポートでした。

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2021年7月 5日 (月)

ギンガムチェックが好き

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もう10年以上前から愛用しているギンガムのキッチンシャツ。洗い込んで生地が薄くなり、脇のスリットがほつれてきているので、Mくんには「外に着て行っちゃダメ」と言われているのですが、代わりになるお気に入りがなかなか見つからなくて、未だに家の中限定で着ています。
これは、アンの部屋オリジナルで織ってもらっていた生地で、赤と紺と茶色と黒の4色、綿織物の産地遠州(浜松)の工場に頼んでいました。白糸との交沙織は当時どこでも手に入りましたが、これは生成の糸と交沙させ、洗い込んだようなゆるい仕上がりにしてもらっていました。
20年ぐらい前まで、国内にはギンガムの生地を織っている産地が何か所もありました。先染織物が得意な生地メーカーも多数あり、特に私のお気に入りが2社、ひとつは国洋という会社で、大小さまざまなブルー(インディゴ)系のギンガムを得意としていました。もう1社は松田輪という会社で、新潟の小さな工場でギンガムをはじめタータンチェックやストライプなどの生地を作っていました。一口に風合いのいい生地と言っても、糸の太さ、撚り具合、縦横に何本ずつ織り込むか、色出し、仕上げローラーでの巾出し等、さまざまな工夫がかかわってきます。そんな地味だけれど素敵な綿織物が日本にはあったのに、中国に仕事を奪われ、生地メーカーは次々に廃業したり倒産したりしてしまいました。
たとえば国産の生地を使い国内で縫製すると、ギンガムのシャツが1万円前後になります。でも、中国の生地を使って中国で縫製すると、同じものが4分の1以下の価格で作れます。そのかわり、同じデザインのものを1万着以上作る必要があり、安い物を大量に消費する世界が生まれます。そして、国内の縫製工場はほとんど廃業してしまいました。

…あれっ、ギンガムチェックが好きという話が、なんだか違う方向に行ってしまいました。イラストレーターの西村玲子さん(調べたら亡くなっていたのですね)の本の中に「ギンガムチェックのお店を開きたい」という一文があったのですが、「うんうん、私も」と大きくうなづいたのを憶えています。お手元に昔のギンガムの生地がありましたら、それは国内の織物工場で織られたものかもしれない…なんて、ちょっと思ってあげてくださいね。

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2021年6月22日 (火)

Mt. Rainier

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アメリカのワシントン州にある標高4,392mの山で、もちろん登山をするには相応な技術が必要ですが、山の周囲には美しいトレイルが広がり、とても楽しいハイキング・キャンピングを経験することができます。40代は歩くことが大好きで、私達は夏休みのたびにこのレーニエ山にハイキングに行っていました。写真はたぶんデイハイクに行った時のもので、高山植物が咲き乱れ、後方に雪渓も見えています。マーモットがすぐ近くの岩の上で休み、トレイルはよく整備されて歩きやすく、時々テントを担いでキャンプに行くこともありました。
国立公園の中なので、キャンプ地は厳密に管理されていて、先着順でテントを張る場所を指定されます。近い場所は人気があるので、できるだけ早い時間に行く必要があるのですが、一度近場はすでに埋まっていて、数時間歩いた所にあるキャンプ地を指定されたことがありました。私達はワンゲル部出身とかじゃなくなんちゃってハイカーなので、15kg越えのリュックを担いで何時間も歩くのは大変でした(しかものっけから道を間違えて2時間近く余分に歩いた)。しかし、小川沿いに高山植物が咲き乱れる様子はこの世のものとは思えないほど美しく、テントを張ったら寒くて震え上がり、お湯を沸かして水筒で湯たんぽを作ったりしたのだけれど、とても印象深い思い出の一コマになりました。

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2021年6月18日 (金)

旅に困難はつきもの

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大リーグの優勝パレードの様子をTVで目にしたことはありませんか。道の両側のビルから紙吹雪が舞い、選手を乗せた車の列を大観衆が歓声で迎える。初めてMくんとボストンの街を訪れた時、たまたまそのパレードに遭遇しました。ビルの窓からは大きな赤い靴下がいくつも下がり(チームはレッドソックスなので)、街は熱狂の渦に包まれていました。
それは私達が初めて”ツアーでない”海外旅行をした年でした。それまでにもパリや香港、シンガポールなどには行ったことがあったのですが、航空券とホテル、レンタカーだけ手配して、あとは自由に動き回ってみたくなったのです。バックパッカーをするには年がいっているけれど、ツアーで行くと望まない制約が多すぎる。それで、従弟に紹介してもらった旅行会社に最低限の手配を頼みました(インターネットなどない時代です)。しかし、我々がすることだから想像に難くない、困難に次ぐ困難な二人旅となりました。
NYのJFK空港に到着しました。そこから車を借りてホテルに行くつもりでしたが、レンタカーのコーナーに行くと電話機が1台ポツンと置いてあるだけ、「オフィスへ行くリムジンを電話で呼んで」と書いてあります。こ、この英語力で、で、で、電話ですか( ̄▽ ̄;)。なんとかたどり着いたオフィスでは、よく聞き取れないのにオプションは要らないと断り、後から書類を見たら保険に入っていませんでした。
セントラルパークを見下ろすホテルに2泊、そのあとボストンに2泊。さらにピルグリム・ファーザーズが入植したプリマスまでドライブし、帰りにケープ・コッドに寄りました。夫が岬マニアなのはご存知ですか?当然ケープコッドの先端まで行こうという話になります。ケープコッドはケネディ家の別荘があることでも知られた、風光明媚なリゾート地です。美しい丘や森の間にソルトボックススタイルの可愛らしい家が見え隠れし、ドライブウェイの途中にはお洒落なレストランや雑貨店が散在し、いい気分でドライブしていたのですが、なんだかやたらとデッカイぞ、ケープコッド。いくら走っても先端どころではなく、その日はボストンからワシントンDCに飛ぶことになっていたのですが、それは到底無理だということが分かり、ケープコッドのペンションに泊まりました。そして宿のオーナーに(手紙で)頼み込み、航空会社とワシントンDCで泊まる予定だったホテルに電話をしてもらいました。
さて、翌日ボストンからワシントンDCに飛ぼうと思ったら、空席がありません。あれ?でも荷物は預けちゃったよ?どういうシステムになっているの?スタンバイに行けって言われたみたいだけど、何のこと?訳も分からず列に並んでいたら、係員のお姉さんの言うことが全く聞き取れず、あまりに時間がかかるためお姉さんと私達の後ろに並ぶ人達が口論になり、”いつまで待たせるんだ””だってこの東洋人二人が言葉が分からないんだからしょうがないじゃない”と言っているらしいことは、いくら言葉が分からなくても雰囲気で分かり( ̄▽ ̄)大汗をかきながら、なんとかフライトに乗せてもらいました。
そのあとに泊まったワシントンDCのホテルが素敵だったこと!…なんてことはどうでもいいのですが、自由旅行をするには語学力が足りないことを痛感し、その後ECCの英会話教室に数年間通ったのでした。紅葉が美しい時期で、ハロウィンというものがあると知ったのもその時でしたし、田舎道のドライブは楽しい、ホテルなんか予約しておかなくても好きな所に泊まればいい、レストランなんか行かなくても食料は調達できる、ハプニングは楽しい、と味をしめた私達は、その後あちこちに出かけることになったのでした。

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2021年5月17日 (月)

我が家は動物園

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私の父親は船会社に勤めていて、貨物船のパーサーをやっていました。横浜港に父の乗っている船を見に行ったことがあるのですが、丸い窓のあるで船室で、木製のベッドがあり、モダンだなあと思った(当時はベッドなんて見たことがなかった)記憶があります。パーサーというのは事務職で、出港前に乗組員の食料品を確保するのが主な仕事と聞いたような気がしますが、航海中は時間がたっぷりあるので、釣りをしたり(大きなカジキマグロと一緒の写真がありました)、コックに料理を教わったりしていたようです。家に帰ってくるのは盆暮れ正月だけでしたが、アメ横に買い出しに行って料理をしたり、大工をしたり麻雀をしたり(あれ、誰かに似てる)、投網で鮎を大量に獲ったり、高校野球を熱心に視たり、存分に遊んでいた印象があります。
さて、その父が海外から連れてくる動物たちで、子供の頃の我が家は動物園のようでした。熱帯魚、インコやオウム、カニクイザルのつがいまでいました。サルは父が作った大きな檻で飼っていたのですが、子供の私にはちっとも可愛くなくて、いじめられた記憶しかありません(笑)。サルって上下関係に敏感で、父を見ると歯を出して笑い、もみ手をするんですよ。で、子供の私のことはバカにするのです。熱帯魚は綺麗というより世話が超面倒で、でもオウムの白ちゃんのことは、家族みんなで可愛がっていました。人間の言葉を覚え、ドアが開く擬音までそっくりに出し、自分のカゴの扉を開けて庭を散歩しているし(よくネコに襲われなかったものです)、膝に乗って撫でてもらうのが大好きでした。カゴに戻そうとすると嫌がって、脚を羽根の中に隠してしまう(止まり木に移されないように)のがご愛敬でした。
そんな我が家でしたが、父は不在期間が長いのでほとんど母子家庭状態で、母の姉である伯母が一緒に住んでいました(あの100歳まで生きたおばちゃんです)。父はその後陸に上がり、父の船会社が経営する北海道の牧場・農場の支配人になりました。それで私は中一の時に北海道に引っ越したのでした。

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2021年5月16日 (日)

ツルバラが満開です

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久しぶりにアトリエに行ってみたら、ツルバラの木がずいぶんと大きくなっていました。窓の周りにグルっと這わせようと思っていたのですが、台風の塩害でいちど駄目になり、刈り込んでから自由にさせていたら、こんなにのびのび大きくなってしまいました。もう窓の周りに這う気なんてないよね?
子供の頃の家に、これと同じバラのアーチがありました。ペンキで白く塗ったアーチは父の手づくりでした。この木はスタッフが自分の家から分けてくれたものなんですが、奥の方に背の高いプラムの木があって、これは彼女がおやつに食べたプラムの種を埋めておいたものです。 よく見たら実が成っていて、たった60cm巾ぐらいの花壇で肥料もあげていないのに、植物の生命力はすごいなあと思いました。

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2021年5月 8日 (土)

パリは大人の街

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初めての海外一人旅、目的地に選んだのはパリでした。新婚旅行時の印象が悪くて、Mくんは「二度と行きたくない」と言うし、30代の私には、やはりパリは魅力的な街なのでした。
何が好きだったのか。まず、専門店が元気なこと。「料理の本の店」「南仏のテーブルクロスの店」「リネンのベッド周りの店」「文房具の店」など、専門的な品揃えの店が多く、扉を開けるのがとても楽しいんです。
次に料理が美味しいこと。パリで食べる中華は香港より美味しいし、イタリアンもポルトガル料理も、露店で買い食いしても、何もかもが美味しい。カルチェラタン(学生街)あたりで庶民的なレストランを探し、美味しいと思った店には何度も足を運びました。
それから、人が暮らす街であること。沢山の人が生活しているので、果物屋も酒屋もパン屋も市場も徒歩圏にあります。野菜や果物はバラで買えるし、ワインなんてすごく安くてすごく美味しい。夜歩いていても人いきれがあって、無人の大都会とは違う親しみやすさがあります。
そして、大人が遊べる街であること。フランス人は「40歳までは子供扱い」なんて聞きますが、ナイトライフを楽しんでいるのは60代70代とおぼしき人達。それがみんなお洒落で素敵なんです。若者はどこにいるかというと、「家にいる」とその頃は聞いたのですが、私が知っているのは15年以上前のことですから、今は違うのかもしれません。
初老の素敵なカップルを見て、私もあんな風になりたいな…と思ったのですが、今はどうでしょう。外に飲みに行ったりする趣味がないので、インドアにこもりがちですが、コロナ禍が過ぎたら夜遊びに…あいやいや、星空を撮りに行くんですけどね。

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2021年4月29日 (木)

「ニュー・シネマ・パラダイス」の日

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今日のBSシネマは「ニュー・シネマ・パラダイス」でした。もう何度も観ているから今日は観なくてもいいか…と思っていたのに、ちょっと観たらまた魅了されてしまいました。それに、意外と細部をよく覚えていなかったのです。
”とてもいい映画”という印象はあったのですが、ストーリーは忘れていました。年齢とともに印象が変わるということもあるんだと思います。私が昭和の匂いとして記憶している町の様子や映画館の熱気、イタリア人にとってはこの映画の中の景色が、彼らの”三丁目の夕日”なんだろうなと思ったりしました。大人になったトトが、最後にこの映画館を買い取って蘇らせる…なんていう結末かと思っていたら、それは私の勘違いで、もっと素敵な結末でした。
話は別で、昨日久しぶりに行ったヤマハのオーケストラ・アンサンブルのクラス、練習する曲目が「ニュー・シネマ・パラダイス」でした。やっぱり合奏って楽しい。それに、チェロ弾きの女性がベイスターズファンと分かり意気投合して、やめようかと考えていたクラスを、もうすこし続けることにしました。
今日は母の誕生日で、さっき電話で話をしたら、昨日兄が面会に行ったのがすごく嬉しかったらしく(もうずいぶん長い間会っていなかったのです)、「感激して涙が出ちゃったわ」と言っているのを聞いて、いろいろとしみじみした一日でした。

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2021年4月22日 (木)

地球は狭いわよ

私が海外一人旅をしてみようと思い立ったのは30代の頃。それまで海外旅行というと団塊世代のバックパッカーが主でしたが、1980年代になると、おそどまさこさんの「女も度胸!地球ひとり旅」「ヨーロッパに夢中!旅ガイド」なんていう本が出版されて、女性ならではの旅のノウハウが紹介されるようになり、私もそれに感化されて、海外一人旅をしてみようと思うようになったのでした。
さて、言葉のほうはどうするか。それ以前にMくんと、ツアーを使わないアメリカ東海岸旅行をしてみて、自由な旅行をするには語学力が足りないということを痛感していたので、「小林克也のアメリ缶」という海外旅行のための教材を二人で丸暗記しました。書くほうは得意なMくんに、ガイドブックに載っていた(ネットのない時代です)小さいホテル数軒に手紙を書いてもらい、おかげでなんとか私のパリ一人旅の目処が立ちました。
エアチケットを購入し(確かルフトハンザでした)、旅支度をしているうちに、だんだん怖くなってきて、なんでこんなことをしてみようと思ったんだろう…と後悔の念にかられたのを覚えています。
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飛行機の中で「ビール」を頼んだら「ミルク」が出てきてしまうという失敗はありましたが、意外と聞き取れるぞ・意外と話せるぞと「アメリ缶」に感謝しつつ、シャルルドゴール空港に到着しました。便が遅れてホテルに知らせてあった到着時間に間に合わないと気が付き、日本人のスチュワーデスさんを探して電話をかけてくれるようお願いしたり、入国審査と荷物受け取るのと税関とどれが先だっけ(汗)とアタフタしたりしながら、なんとかホテルにたどり着きました。翌朝ホテルのドアを開け、自分が方向音痴だったことを急に思い出し、最初の一歩を踏み出すのに30分以上かかったのを記憶しています。それが私の海外一人旅の一歩目でした。

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2021年4月15日 (木)

Brown's Hotelの思い出

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もう30年ぐらい前、ロンドンに1週間ほど一人旅したことがありました。リバティやハロッズ、コンランショップなどをのぞいたり、列車に乗ってブライトンに行ってみたり、郊外の村を歩いてイギリスの田舎好きに目覚めたりしたのですが、何より印象に残っているのは宿泊したブラウンズ・ホテル。今みたいに豪華なブラウンズではなく、古びた木造の、でもアンアンなどでよく紹介されるお洒落なホテルでした。
通されたのは細長い小さなベッドルームに、その部屋より大きなバスルームの付いた部屋でした。クラシックな猫足のバスタブの横には、真鍮のタオル掛けにワッフル織の薄いタオルがかかっていたのですが、それが吸水性が全くなく、「キッチンタオルみたい」と思ったことを覚えています。
そのホテルに1週間滞在したのですが、チェックアウトの荷造りをしてる時にふと、バスルームの奥に木製のドアがあることに気が付きました。掃除道具入れ?何があるのかな…と開けてみると、そこには大きなベッドルームが!キングサイズのベッドを設えた、広々とした素敵なベッドルームです。えーーーっ、こんな部屋があったの!
そうとも知らず、廊下のような狭い部屋の、真鍮の子供用ベッドのようなものに1週間寝ていたのでした。帰国する日に気が付いたので、その大きなベッドルームは使わずじまいでした。まあ、あの有名なアフタヌーンティーも満喫できたからいいか、ははは。

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2019年11月22日 (金)

さんざしの花

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村岡花子訳のアンの物語は、とても”想像の余地”があり、小中学生には難しい謎の言葉がたくさん出てきました。料理の名前、薬の名前、植物の名前…たとえば、アンは「さんざし」の花が大好きで、さんざしよりもっといいものなんてあるはずがないとまで言い、物語にも頻繁に登場するのですが、どんな花か知らない私は自分でイメージする以外になかったので、私なりの「さんざし像」を持っていました。「かけはぎつぎ」というものがよく登場し、アンはその作業が嫌いで、私はそれにも自分なりのイメージを持っていたのですが、70年代にパッチワークが日本に紹介されるようになり、「あ、かけはぎつぎってパッチワークのことだったんだ!」と、急に腑に落ちたりしました。
そのせいかどうか分かりませんが、「赤毛のアン」の物語が好きな人は、自分なりのイメージを持っていて、映画やアニメは観たくなかったりするのですが(私のことです)、アニメを観てみたらやっぱり面白くて、後からこっそり全編観ました。映画はね、ギルバートがちょっと違うよ、ダイアナはあんなに大女じゃないよとか、「花子とアン」を視て何だかガッカリしたり、プリンス・エドワード島に行ってみて、こんな清里みたいな俗っぽい所じゃないはずと思ったり、まあ勝手なもんです、すみません。

それで、本題の松本郁子訳の「赤毛のアン」なんですが、発刊された時に、すぐ買ったのです。なのに読まずに置いておいたのです。村岡花子訳を読み込んでいたので、いろいろ覆るのが嫌だったということもあったのですが、数日前、夜中に目が醒めてどうしても眠れず、手に取って読み始めてみたら、やっぱり面白い。そして、ふさぎこんでいた気分が晴れて、前向きな気持に戻っていました。何がそうさせるのか上手く説明できませんが、13歳の私が学校に戻れるようになった魔法が、今の私にも有効だったのかもしれませんね。

イラストは、カナダのノバスコシア州の州花
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ノバスコシア州のHPからお借りしました。
これが「さんざし」の正体だそうです。

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2019年11月21日 (木)

「赤毛のアン」ってやっぱり面白い

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小学校高学年の誕生日に、母に買ってもらった最初の本は、紫色の表紙のハードカバーでした。その後、中学1年で北海道に転校する時、上野まで見送りに来てくれた伯母が、10冊の文庫本を手渡してくれました。最初の1冊しか知らなかった私は、アンの物語がこんなに沢山あることに驚きました。そしてこれが、私の愛読書になりました。
父の仕事の関係で越した先は、大自然に囲まれた道南の小さな町でしたが、あまりの文化の違いに戸惑った私は、謎の高熱が続き(学校に行こうとすると40度近い熱が出る)、ついに登校拒否児童になってしまいました。その時に読んだのがアン・ブックスです。
数か月家に閉じこもっている間に、何度も何度もアンの物語を読みました。数日通ったきり姿を見せなくなった転校生に、クラスメート達が手紙を届けてくれたりもしました。やがて、中学生の女子にとって魅力的な首都圏の生地の代わりに、プリンス・エドワード島によく似た素晴らしい大自然の中に住んでいることに気が付きました。アンに励まされた私は学校に行かれるようになり、行ったら行ったで言葉まですっかり同化して、にわか道産子になっていたのです。

…新訳の松本郁子の「赤毛のアン」について書こうと思ったのに、前置きが長くなってしまったので、続きはまた明日。

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2019年10月22日 (火)

「グリーンブック」

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映画の面白さを堪能しました。

60年代初頭のアメリカ、黒人天才ピアニストがイタリア男を運転手兼用心棒に雇い、差別意識の強い南部にあえて8週間、コンサートツアーに行くというお話。この時代のアメリカでは、公然と有色人種を差別することが、違法ではなかったんですよね。ホワイトハウスで演奏するほどの高名なピアニストても、南部では様々な目に遭い、…おっと、新作映画なのにネタバレしてはいけません。表題のグリーンブックとは、「黒人が嫌な思いをせずに泊まれるホテル」をリストアップしたガイドブックのことです。

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2019年6月 9日 (日)

天使の梯子が空に

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今日は、栃木の塩谷町まで日帰りで行ってきました。取引先であり友人である女性がなくなったと連絡があったのです。
私達が物作りを始めた頃、鎌倉の店に偶然立ち寄り、作っているものをとても気に入ってくださり、自分の店で売りたいと声をかけてくださった人です。まだ卸などしていなかった私達にとっての、初めての取引先でした。
それから私達は塩谷町まで出向き、ユニークな彼女の暮らしぶりに魅せられ、とても楽しい気分になりました。元気で快活な彼女の家には、近所の女性達が次々と顔を出し、彼女の子供や猫や犬がごちゃごちゃと暮らしています。彼女はいつも私がデザインしたワンピースを着て、それがまた独特のセンスで素敵でした。
印象に残っている着こなしがいくつかあります。ある日、彼女はスカートが二重になっているジャンパースカートを着ていたのですが、上のほうのスカートにジャガイモをいっぱい抱えて、「便利よ」と満面の笑み。またある時は虫が食って穴が開いたセーターを着ていたのですが、それを「虫のごはんになった」と言って、愛おしそうにしていたのです。それがいかにもカッコよくて、服を着ることの意味を教えて貰ったと思いました。
震災後、塩谷町は福島からの廃棄物の処分場候補地になり、彼女の家族の暮らしぶりは一変してしまいました。そんな中でも、彼女は健気でおおらかでユーモアを失わず、一生懸命働いて、敬虔なクリスチャンでした。何度か大病をして、健康がすぐれないことも多かったのですが、お見舞いに行くと、「まだ神様が来ちゃダメだって」と言うのです。「私はもう、いつでも神様の元に行く準備はできているのよ」と話していた彼女ですが、それは残された者へのやさしさでもあったのでしょうね。

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2018年12月11日 (火)

この頃のこと

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昨年末に「アンの部屋」をセミリタイアしました。「私の部屋」として鎌倉に開店したのが1974年でしたから、44年間走り続けていたことになります。二十歳だった私が今ではシニアの仲間入りをするようになりました。せめて70歳まで、できればいつまでも走り続けていたいと思っていたのですが、自分の体力や母親の介護のことなどもあり、スタッフにバトンを渡すことにしました。2017年の冬物まで私が企画し、年末に大好きな福袋作りをして、走り続けることをやめました。今年からは月曜日と金曜日に出勤して、写真を撮ったり、TOPベージをMくんと一緒に更新したりして、ゆっくり歩いています。

私がものづくりを始めたのは、1978年頃のことです。1970年代の前半には、雑貨屋さんなどという概念は一般的ではありませんでしたが、団塊の世代の人達を中心に、今までにないものを自分達の手で作り、自分達で販売しようという熱気が世の中にあふれていました。中でも吉祥寺や鎌倉などは「手作りのものを売るお店」のメッカとなり、魅力的な小さな店が、路地のあちこちにありました。高校性の私にとっては、原宿表参道や横浜元町は外国のような憧れの地でしたが、鎌倉は、兄姉世代の人達が個性的な店を開き、品のいい素敵な人達の住む、”すぐそこにある”憧れの街でした。
高校を出て、音大受験のため浪人していた私は、その頃お気に入りだった雑誌「私の部屋」の中にフランチャイズ店募集の一文を見つけ、こんなお店だったらやってみたいと思い、母を焚きつけ、鎌倉に「私の部屋」のフランチャイズ店をオープンしました。1974年3月21日のことでした。「私の部屋」は独自のポリシーを持ったお店で、そこで多くのことを学びましたが、店に入ってきてくれた人が笑顔になって出て行ってくれること、商品を売るのではなくライフスタイルを売ることなど、今のアンの部屋にも受け継がれていることがたくさんあります。私は、自分がいいと思ったものに共感してくださる方が沢山いることに驚き、それが大きな喜びにもなりました。
「私の部屋」は雑誌社の経営で、知的な側面があり、初代社長は仏文学者でした。お店の中には北欧IKEAの家具(その頃は直輸入でした)やスウェーデンハウス、風見鶏や燻製鍋、ほうろうの水切りや小樽の吹きガラス、ポットカバーやランチョンマットなど、70年代に暮らす普通の人は見たこともないようなハイカラなものがあふれ、「ここは何屋さんですか?」と毎日のように聞かれました。"雑貨屋さん"という概念がない時代です。
そんな雑貨屋さんを何年間か続けていくうちに、私は「何か作りたい」「布のものがほしい」と思うようになりました。手染め木綿の普段着、お出かけ用のアウターではない暮らしの中で着る服、フリーサイズでフリーエイジで、ざぶざぶ洗えて毎日着られる服。手頃な価格なのにカッコいい、そういう生活着を作りたい。それは、その頃出会ったMくんの影響でもあります。

あ、なんだか語りたくなってしまったぞ。また続きを書きます。

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2018年11月 2日 (金)

モノはかわいい

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断捨離という言葉(思想?)が浸透し、物を捨てる、物を持たないのが美徳という風潮があるようですが、引越しの荷づくりをしながら、それはちょっと違うような気がしてきました。自分が好きで手に入れたものはかわいいのです。
必要なものだけを置いたシンプルでミニマムな空間は、気持ちいいだろうなとは思います。スペースが広々と使えるんでしょうね。でも、好きなものが目に入る暮らしも楽しいんです。そのためにちょっとスペースが狭くなっても、愛しいと思うものと暮らす楽しさを捨ててはいけないな、と思うようになりました。
経年変化で劣化したものは捨てています。充分使い込んで、すり切れたものも捨てています。使うことがない消耗品も捨てています。なんでこんなもの取っておいたんだろう…と思うものがザクザク出てきて、ためらいなく捨てられるものもいっぱいあります。
でも、二つあるからもういいね…と捨てたはずの電気ポットをMくんが拾い出してきて、きれいに磨いたら、いいデザインの上に機能もちゃんとしているので、これは捨てるのをやめました。実はもうひとつ、50年代風のオレンジのポットがあり、これは電気コードが見当たらないんだけど、形と色がお気に入りで、取っておくことにしました。笑わば笑え、我が家には電気ポットが4つあるのだ。
ガラス製品も、捨てる前に洗って磨いてみることにしました、すると、絶対使わないと思っていたちいさな保存瓶が、ボタンやクリップを分類して入れたら、便利でかわいいんです。埃だらけのパスタ入れも、洗ってみたら淡い緑色のソーダ硝子で、コルク栓を捨てて花入れにすることにしました。数あるカゴ類も、洗って干して埃をブラシで掃ったら、あらどれもかわいい。アクリルやプラスチックは劣化するけれど、ガラスや陶器や籐製品は、洗えば蘇るんです。
かくして、我が家はだんだん緩くなっていき、好きなものは積極的に使うという方針に方向転換しました。次の家で暮らしながら、それでも不要と思ったものは捨てていきます(あれ?今の家に越してくる時もそう言っていたような…)。
よかったことと言えば、Mくんと私の感覚が似ていること。私は陶器やガラス器が好き、Mくんは本や機械類が好きという違いはあるけれど、要らない・要らないけど取っておくという感覚が似ています。お互いの持ち物は捨てないという暗黙の了解があるので、相手が出したゴミ袋には、「もしかして大事な(自分にとって)物が入っているんじゃないだろうか」なんて思わずに済みます(昔はこれで随分喧嘩しました)。そう思ったら、引越しがずいぶん楽になりました、気分的にね。
さて、あと3日間、頑張るぞ。月曜日には引越しのサカイが梱包に来て、火曜が移動日です。あ、郵便の転送手続とかしてない…新しい住所がご入り用な方は、メッセージくださいませ。

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2018年1月19日 (金)

春は名のみの~♪

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さる1月11日、100歳の伯母が生涯を閉じました。
24日に救急搬送されてから19日間、私達にはたっぷりの時間がありました。数日後に昏睡状態に入ってからも、枕元で昔話をしたり、甥姪総出で見守りをしたり、そうできたのは、毎日が危篤状態で、病院のほうでも面会時間に関係なく付き添いを許可してくれたからでした。
とにかく生命力が強い人でした。いよいよ駄目と一同が集まると、バイタルが安定してしまい、一旦解散。それを何度も繰り返しました。賑やかなのが大好きな伯母でしたので、皆が集まると元気が出てしまうようでした。特に私の母(伯母にとっては妹)がいると幸せそうにスヤスヤ眠っていて、母には伯母が危篤というのが最後まで信じられなかったようです。
最後の数日は、私達夫婦、兄夫婦が病室に泊まりました。脈が早くなり、頻脈が止まらなくなるたびに、Mくんが枕元で歌を歌ってくれました。「春は名のみの~」「みかんの花が~」「あしたはまべで~」…その歌声が心に沁みました。
伯母は1917年生まれ、ロシア革命の時代です。戦前は職業婦人として丸の内に勤め、私が子供の頃は我が家に同居して第二のお母さんをしてくれていましたが、50歳の時に一念発起、鍼灸の学校に4年間通い、鍼灸師として独立しました。この頃の生き生きとした様子も記憶しています。晩年は母と一緒に我が家の近くに住み、野菜や花を育て、のんびり気ままに過ごしました。
終生変わらず天真爛漫で、あまのじゃくで頑固で、そこもかわいらしく、独立心が強く、ほがらかで快活で、聡明でセンスがよく、人に尽くす人でした。こんなに生命力が強いのに、肺炎の治療のため1週間以上絶食して、その間に衰弱してしまったのが唯一の心残りです。食べながら治すという時代になってほしいです。
皆さまには励ましのメッセージをたくさん頂いて、本当にありがとうございました。

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2017年3月16日 (木)

WBC、本番はこれからだ!

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連日手に汗にぎる戦いが続き、TVに釘付けのWBC戦。グループ戦が終わり、これからは一発勝負のトーナメント戦になります。侍の面々はアメリカに渡ってこの後の戦いをするわけだけれど、今までのようにはいかないのではないかと私は思います。
これまでの試合はどちらかというと打撃で勝ち抜けてきたけれど、打撃は水ものとも言います。彼等に大リーグのピッチャーが打ち崩せるのか。ここで必要なのは、田中まーくん、ダルビッシュ、前ケンのような超一流投手。あるいは、岩隈、上原のような手練の投手。大谷も欠き、菅野や藤波が大リーグの選手に通用するのだろうか。
とはいえ、楽しみですね。この戦いの影の立役者は、地味ながら抜群のリードを見せる捕手の小林(くやしいが巨人・笑)と、ベイスターズを優勝に導いた権藤ピッチングコーチ。それほど大した投手もいなかったベイスターズ(佐々木はいたけれど)の中でなんとかやりくりし、マシンガン打線で打ち勝った権藤がマウンドに出てくると、オールドベイスターズファンは反射的にワクワクしてしまいます。筒香の活躍も嬉しいけど、ベイの筒香がジャパンの筒香になってしまって、一抹の寂しさも覚えたりしています。

もとい、さあさあ、決戦はこれからだ!
次の相手はどこになるのか、当分WBCから目が離せません。

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2017年1月25日 (水)

義母のこと

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浜松の義母(88才)が1月20日に急逝しまして、通夜・葬儀としばらく浜松に滞在していました。昨年末の餅つき大会に参加して、元気な義母と搗きたてのお餅を食べてから3週間、その後椅子に座りそこなって腰を骨折したとは聞いていたのですが、15日までは普通に暮らしていて、16日辺りからだんだん具合が悪くなったとのこと、敗血性ショックという診断でした。
豪快な楽しいお母さんで、明るく社交的、プレゼントをするとニコニコと大喜びで受け取ってくれるので、次は何を持って行こうかと考えるのが楽しみでした。ここ数年は月ごとに会いに行って、旅館に行ったりお花見をしたり食事をしたり、糖尿病なのでメニューには気を遣いましたが(私達が行くと血糖値が上がると医者に叱られた)、次回は何を食べようかと、それを考えるのも楽しみでした。葬儀の帰りにロードサイドにいい感じのお店を見つけ、「次回はあそこどうかな」と一瞬思い、その必要がなくなってしまったのだと寂しくなりました。
いっぱいの花に囲まれての、にぎやかな葬儀でした。「こんなきれいな嫁さんもらっていいのかな」と結婚する前の義父が言ったという、義母の従兄弟の弔辞が素敵でした。なんだかんだと憎まれ口を叩きながらも、微笑ましい義母とMくんとのツーショットがもう見られないのだと思うと、ほんとうに残念です。

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2016年7月28日 (木)

あまやかな贈りもの

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運送屋さんから手渡された時に、箱の中身は桃!とすぐに分かりました。やさしく甘い香りがほんのり漂ってきたのです。
子供の頃、庭には桃の木があって、毎年新聞紙で数百枚の袋を貼り、家族総出で桃の実に袋をかけていました。そうしないと、毛虫に食べられてしまうのです。そうして、夏のおやつは庭の大きな桃の実でした。
このにおいをかぐと、しばし夏休みの子供に戻ります。

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2016年7月 7日 (木)

七夕に生まれて

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お誕生日はいつ?と訊かれるのがなんとなくテレくさかったりします。
7月7日の、しかも平塚の町に生まれたのが、ピンポイントで恥ずかしかったりして…というのは、平塚は七夕祭りでちょっと有名な町で、小中学校でも飾り付けをしてコンテストなどに参加するので、子供の頃は、自分に責任があるような気持がしたのです。
引っ越してしまった今でも、お祭りの日には様子を見に行きたくなります。雑然として、暑くて、いまいち垢抜けないお祭りなんだけど、地下道の隅っこや、古い本屋の棚の間や、ハッカパイプなどを売る屋台の賑わいに、子供時代の記憶がよみがえったりして。さて、今年はどうしよう。行くと暑くて疲れて、行かないとなんとなく残念。毎年迷う、7月7日です。

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2016年6月29日 (水)

東京オリンピックから万博の間に

この曲を聴いたら、懐かしく思い出しました。
団塊世代の兄を持つ私は、この曲をはじめとする一連のジャズ、もちろんビートルズ、そして恥ずかしながらグループサウンズの音楽を聴きながら中学生時代を過ごしました。「Anne Books(赤毛のアン+続編/10巻)」が愛読書だった夢見る北海道の2年間から、都心まで1時間の海辺の街へ戻ってきて、美大生の兄から新しい文化の嵐を浴び、毎日が驚きだったあの頃の空気が、このTake5のメロディを聴いた途端によみがえります。東京オリンピックから大阪万博までの6年間は、成長し続ける日本と自分がリンクして、思い出すと胸苦しくなるような時代でありました。

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2016年6月28日 (火)

鵠沼店の花壇

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春に植えた植物が、初夏の日差しを浴びてぐんぐん伸びています。

http://marybell.cocolog-nifty.com/photos/160603kadan/index.html

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2016年6月24日 (金)

ムーミンビスケット

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缶には「ムーミンママのシナモンブレッド」と書いてあります。フィンランドのお菓子・・・と思っていたのだけれど、「hokka」という文字を頼りに検索してみたら、金沢のお菓子メーカーのものでした。ムーミン一家やスナフキン・ミイなどが、ほんのり甘いビスケットになっています。
http://hokka-shop.jp/

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2016年6月23日 (木)

裏通りのパン屋さん

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iPhoneの道案内に任せていると、時々とんでもない裏道を案内してくれて、新鮮な驚きがあるのですが、そんな中見つけた路地奥のパン屋さん、鎌倉駅から徒歩数分の所にあります。「えーっ、こんな所車で通れるの?」というような細い路地です。私は車をブツけました。別の日には、私とすれ違おうとした対向車が、塀にコスっていました。そんな楽しい(?)路地なのですが、小さな雑貨屋さんやカフェ、ラーメン屋さんやケーキ屋さんに混じって、この緑のテントのパン屋さんがあります。
いつも、「寄ってみたいな」と横目で見ていたのですが、昨日は店の前に駐車スペースがあることに気が付きました。車を停めて中に入ってみると、まあ、美味しそうなパンがたくさん並んでいること。大きくはないお店なのに、種類が豊富で、”レモン”とか”チーズ”とか”岩塩”とか、私が好きなフレーズが目に付き、自分の分と母の分と数点買ってみることにしました。
さてさて、お味のほうはどうでしょう・・・と写真を撮ろうと思っていたのですが、食べやすくて、パクパク食べてしまいました。最近ハード系のパンが流行りですが、ここのものはふわっと柔らかく、中のクリームなどもしっとりしていて、やさしい味わいです。ホームページを探して中を読んでみたら、素材や製法にもこだわりのある、ヘルシー志向のパン屋さんのようでした。
鎌倉利々庵 http://kamakura-lilian.com/

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2016年6月22日 (水)

私の一夜漬け練習

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今晩のレッスンに向け、大あわてで練習しています。月に1回なんだから、毎日練習すれば結構上達するはずなのに、お尻に火が着くのは5日前ぐらい。それも、先生から音源と楽譜が送られて来ているのに気が付いて、ノートパソコンで音を流しながら、あわてて練習している次第です。それでもなんとか形になってきて、今晩のアンサンブルが楽しみになってきました。

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2016年6月20日 (月)

カラミンサ

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涼しげなハーブを窓辺に置きました。
ふっといい香りが漂ってきます。

窓辺の花 http://marybell.cocolog-nifty.com/photos/16062

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2016年6月18日 (土)

夏野菜

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朝、市場で買ってきた、採れたて野菜です。

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2015年10月26日 (月)

フェイスブックにもどうぞ

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このところブログの更新ができなくて申し訳なく思っています。

2002年に個人のホームページを作り初めて
http://www5f.biglobe.ne.jp/~marybell/menu/menu.htm
ここでHTMLやスクリプトの勉強をずいぶんしました。

2004年から「日記帳」を書き始めて
http://marybell.cocolog-nifty.com/notebook/2004/03/index.html

2005年、niftyの「noteブック(日記)サイト」閉鎖に伴い、ブログを始めました。
http://marybell.cocolog-nifty.com/notebook/2005/12/index.html

その間mixiにも参加していたのですが、濃密なお付き合いに時間を取られすぎるため、SNSの類は敬遠していたのですが、2012年、知人に誘われてフェイスブックを始めました。そうしたら、長年お付き合いがなかった小学校時代の友人や探していた友達も見つかって、このところフェイスブックの更新のほうが多くなってしまいました。写真のサイズなどに制約がなく、iPhoneから気軽に更新できてしまう点も、今の時代に即しているような気がします。とはいえ、ブログにはブログの良さがあり、愛着もありますので、時間を見つけてボチボチ更新していきたいと思っています。

アンの部屋のフェイスブックページがありますので
https://www.facebook.com/anne19740321
ご興味のある方は「いいね!」してくださったら、更新のお知らせが届きます。フェイスブックのアカウントをお持ちでない方は、こちらからご登録くださいね。
https://m.facebook.com/

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2015年9月16日 (水)

鵠沼店の花

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入り口の水色のバケツには小さな黄色い花を、店内には千日紅を飾りました。黄色い花はダークベルグデージー、キクの仲間だそうです。千日紅は別名ストロベリー・フィールズ、ポンポンとした赤い花が可愛らしく、お店の中が秋らしくなりました。

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2015年9月10日 (木)

iPhoneでここまで撮れるなんて

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(クリックすると画像が大きくなります)

雨上がりのランタナの花に蝶がとまっていたので、iPhone6で撮ってみました。一眼レフじゃないと接写は無理と思っていたのだけれど、スマホのカメラでここまで撮れるなんて驚きです。
「雨上がりの空気は気持がいいな~」(左の写真)
「にこっ」(右の写真)
まるで蝶の気持まで分かるような気がします。

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2015年9月 7日 (月)

怒っています

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おばあちゃんグマ(30歳)のウッチーが若いオスとの同居訓練に使われ、オスグマに襲われて死亡した。1回だけの事故かと思ったら、何回も同居させられ、飼育係は襲われる所を見ていたのに止める手立てをせず、ウッチーは噛み傷だらけで肋骨が4本折れ、それが胸膜と横隔膜に突き刺さって、ひどい状態だったとか。獣医が手当てすることもなく、丸山動物園側は当初転落死と発表。飼育係が窓から覗いている所に、ウッチーが助けてと視線をおくっていたと聞いて、かわいそうでたまりません。飼育係は担当する動物のことを大切にしているというイメージがあったのだけれど、こんなことがあると、動物園って何なんだろう・・・と思ってしまいます。

画像はこちらからお借りしました。
++しろくまブログはじめました++
http://polarbear1.exblog.jp/i10/
詳しい経緯も書かれています。

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2015年8月28日 (金)

サクラの授乳風景

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我が家でお世話している地域猫のサクラと子供達。こんなに幸せそうな顔をしている母猫を見ていると切なくなります。自分ひとり食べていくだけでも大変だったろうに(サクラは飼い猫よりオチビです)、一生懸命子育てして、えらいね。
人間が占領している場所で野良猫が生きていくのは大変です。

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2015年8月27日 (木)

母の冒険

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午前中、掛かりつけの内科医の所へ私と一緒に行き、血圧の薬を貰ってから、その足で鎌倉の姉(伯母)の所へお見舞いに行き、息子(兄)と待ち合わせてイタリアンのランチを食べ、それから近所の美容院へ髪をカットしに行った母。元気だなあと思っていたら、今度は電車に乗って藤沢まで買い物に行きたいと言う。大丈夫なんだろうか。
車で鵠沼海岸の仕事場まで行き、そこから徒歩3分の鵠沼海岸駅まで歩き、小田急線に乗って藤沢駅まで。エレベーターで2階に上がり、駅のコンコースを駅ビルまで歩いて、1階に下りて靴屋に行く。そこで歩きやすい靴を見つけ、ご機嫌の母をパチリと撮ったのが上↑の写真。それから、同じ駅ビルの中の本屋に行って、好みのボールペンを選び、さらに隣の手芸店に入り、エプロンを自分用に、毛糸と編み針を伯母用に買う。あ、私もペンケースを買ってもらいました。
それから逆のコースをたどって、鵠沼海岸の仕事場に無事帰還した。合計3時間の大冒険。電車に乗ったのも2年ぶりぐらいじゃないだろうか。付き添う私はヒヤヒヤしたけれど、本人は達成感に包まれて、誇らしく高揚した様子。私も久しぶりに元気いっぱいの母を見られて幸せでした。

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2015年8月26日 (水)

猫に布団

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捨てようと思ってガレージに積んである布団に、サクラの子供達が寝ている。飼い猫と同じように、野良猫も布団が好きらしい。ふかふかして気持がいいもんね。

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2015年8月24日 (月)

スダチとサンマ

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スダチをたくさん頂いたので、サンマを買ってきました。1匹350円、まだはしりなので高いけど、ギュッとスダチを絞ってかけたら、食卓に秋がやってきました。

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2015年8月23日 (日)

ゴースト出現

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これ、何だと思いますか。
私はファインダーの中にこの物体を見つけた時、♪ダンダンダンダン ダッダッダッ ダダー♪と「2001年宇宙の旅」のテーマ、”ツァラストゥラはかく語りき”のテーマが頭に流れてしまいました。気球のようなものが中空に浮いていて、最初は気のせいかとも思ったんですけど、Mくんも見えると言うし、気球か<UFOか偵察衛星か、はたまた怪奇現象かと思ってしまいました。
詳しい人に聞いたところ、これはカメラのレンズのゴースト現象なんだそうです。「レンズの中で月の光が反射しているのでしょう。レンズの表面の反射が、レンズの枚数や曲率によっていろいろな位置にいろいろな大きさの像を結びます。」とのこと。
それにしても、ちょっと珍しい写真が撮れてしまいました。

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月と土星

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(クリックして拡大すると、月の左側に土星が見えます。)

8月22日は月と土星が同じアングルの中で写せると聞いて、湯河原の星ヶ山まで行ってきました。夕方現地に到着すると、お月様は見えていたのですが、あたりが暗くなり始めると、土星が瞬き出しました。これは18時54分の写真。
これを撮った後、広角レンズで満天の星を撮ろうと思っていたら、20時過ぎには霧が出てきて、すっかり何も見えなくなってしまいました。

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2015年8月21日 (金)

ルリマツリ

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この花が以前から好きだったのですが、なかなか苗を売っている所に遭遇できなくて、長年の憧れの花でした。それが偶然、母を植物園に連れて行った時に植木市で見かけ、ああ花苗ではなく木だったんだと納得。2本花壇に植えた内の1本が無事育ち、水色のやさしい花を咲かせてくれました。

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仔猫たち

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子猫達がごはんを食べに来たところを撮ってみました。
奥が「ひい」、手前が「ふう」です。
だいぶ大きくなりました。

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